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傷口の風景 大倉宏
展覧会に並べられた絵を収めた画集(『吉田淳治水彩画集』三好企画)が、最初に作者から送られてきた。図版を見てすぐに、ここにあるのはたいへん質の高い仕事だと感じて胸が騒いだ。
数年前、同じ会場で開かれた吉田の油彩画を見、気を使い合う関係を長年続けてきた男女が、いきなり本心をぶつけ合って喧嘩を始めたようでスリリングだと感想を書いたことがある。
その比喩を延長すれば、今回の水彩画群では争う二人は組み合いながら落下した奈落の底で、粉々にくだけ散ってまざり合い、不可分の、生きた流動体に変じ、目まぐるしい胎動をはじめたように見える。
変化は何より深い濃度、複雑な陰影、ざわめき叫ぶような階調をもった多彩な色に現れている。この色のドラマに掴まれた目は、ついで方々に嵐の中の閃光のように噴出するひび割れに驚かされる。一つの流れに化したものが、かつて裂かれてあったことを激痛とともに思い出すかのよう。本当に深度を増してきたのは絵そのものが感じる、この痛みの感触だ、と気づく。
これらはまた長く不幸な抑圧を受け、伏流のような形でしか繋がってこれなかった「水彩らしい水彩画」の思いがけない湧出とも見える。
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<中略>
画集で興奮しすぎたせいか、会場では逆に妙な既視感を覚えたが、新しい発見もあった。それは様々な色調の絵から感じられる共通の温度だ。平均気
温で言えば20度くらいの感じで、それは吉田が絵を描いている宇和島という場所の風土なのかも知れない。真冬の新潟から見に行った私にはその暖かさが、とりわけ目にしみた。温度という自分を越えたものが絵に浸水してくるのも、これらが水彩らしい水彩画であることと深く係わる事態に違いない。
吉田淳治は尊敬すべき潔癖さを持った画家だと私は思う。その潔癖さが(もしかしたら潔癖さそのものによって)はげしく傷つけられ、その傷口に滲んできたのがこの水彩画群だとすれば、この傷はきっと、もっと深くなることができる。ノルデの「描かれざる絵」(の図版)を画集の傍らにふと置いてそう思うが、それはこの普遍的な力をもった絵と同じステージに立ちうる絵が、奇跡のように現れているということでもある。
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