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おのずと絵になってくる絵(抜粋) ***********************************原田 光

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 やわらかな色たちが重なったり、にじんだり、ぼやけたりして、まるで自ずから成るというように、気ままに変化し、自然と定着し、絵になっている。紙のうえで、色どうしが重なりあい、にじみあうのを、なりゆきまかせのようにして、吉田さんはただ眺めていたのじゃなかろうか。この絵は、描いたものではない。作ったものではない。自ずと絵になったのだと思いたい。重なりも、にじみも、仕事の経験でえた計算でもって、効果の予測がはかられたのには違いなかろう。しかし、むしろ、予測をこえて思いがけないなりゆきのあらわれてしまうところに、吉田さんのよろこびはあった気がする。
 絵を自然にまかせて放りだした。そういっていい。そこにでてくるのは、吉田さんの心のなかにひそんでいた自然状態なのだろう。品がよくて、おしゃれでいて、どうかすると、無頼漢なのに、どっちもちょうどよく吉田さんだという、その生き方の底の、長いことかかってはぐくまれてきた自然のふるまいというものが、絵になった。しかし、それだけではいい足りなくて、吉田さんのいる、海もあり、山もある宇和島の、いりくんだ自然の造作のみごとさだとか、そこにできた町の気品だとかが、いつの間にか、吉田さんをつくってしまっており、そういうものが吉田さんを通して絵になった。そんなふうに思えるくらいに、この絵のできばえは自然なのだ。
 頭で考えているうちは、考えあぐね、しようもなく、ぼー

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っと海なんか眺めていると、ひたひたと寄せてくるものがあって、うっかりするうち、頭も心もさらわれている。そいつが吉田さんのなかであふれてしまい、吉田さんを乗りこえ、手をつたって、紙までひたす。別に考えるでもなく、黒い絵具をベタッと塗ったということはそういうことなのだろう。けれども、黒いしたたりをあえて海と決めつける必要もない。吉田さんのなかであふれた何かというだけでいい。
 考えるのをやめ、見るのもやめ、頭も心もがらんどうになる。そのがらんどうのなかを、蝶がひらひらと舞う。吉田さんは海上に蝶の舞う光景をよみがえらせたが、それは、つまり、茫漠たる広がりへ自分をつれだしたいということの心象であって、吉田さんの頭と心の状態なのだと思えたりする。極小の生きもの一匹が極大の広がりのすべてをみたすということはありえて、だから、極大が感受できる。がらんどうとなった吉田さんの頭と心、のぞいてみたら、海のごとく、また、空のごとく、とめどがなくて、いつも変化し、そのときそのとき、いってみれば、ここにある一枚一枚の絵のように流動さだめがたくて、極微に化した吉田さんの自我一片、感受の意識が、どこやらあたりを漂流している。絵はがらんどうになれた吉田さんである。海を描いたとも、空を描いたともいうまい。絵が海にも空にもなったわけだ。

神奈川県立近代美術館 学芸員